所沢ミレニアムチャーチ(日本聖泉基督教会連合)

所沢の小手指で礼拝を行っている小さな集まり、所沢ミレニアムチャーチのブログです。

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2011年2月13日 日曜礼拝

<メッセージ>「聞く者は生きる」(ヨハネ5:1~9)

序.ベテスダの池
 エルサレムの神殿の北に位置し、マリア生誕の地と伝えられる聖アンナ教会の庭内にある。ヘブル語で「あわれみの家」「恵みの家」を意味する。

1.律法はいのちを与えることができない
 ①律法の中にいる人々の絵

 「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。」(5:2、3)
 「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:14、24)
 ②聖書はいのちを与える御子について証言している
 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(5:39、40)
 
2.イエス・キリストはいのちを与えることができる
 ①イエス・キリストのうちにいのちがある

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:4)
 「わたしはよみがえりです。いのちです。」(ヨハネ11:25)
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)
 ②イエス・キリストは御言葉によっていのちを与える
 「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、
それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけ
ると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上
げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」
(5:5~9)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその
 時です。そして、聞く者は生きるのです。」(5:25)

結.真の安息日
 「ところが、その日は安息日であった。」(5:9)
 「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの
完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第
七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。」(創世記2:1~3)
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたが
たを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

<メッセージ要旨>「聞く者は生きる」(ヨハネ5:1~9)

 今日の聖書箇所の舞台であるベテスダの池は、エルサレムの神殿の北に位置し、マリア生誕の地と伝えられる聖アンナ教会の庭内にあります。「ベテスダ」とはヘブル語で「あわれみの家」「恵みの家」を意味しますが、このベテスダの池において行われたイエス・キリストの御業こそ、真のあわれみ、恵みと言えるでしょう。
 まず今日の箇所から学ぶべきことは、律法は私達にいのちを与えることができないということです。
 ベテスダの池にある五つの回廊は、モーセ五書によって代表される律法を象徴しています。ですから、その池にいる「大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たち」は、律法の下で弱り切ってしまったみじめな罪人を象徴しているのです。この姿は使徒パウロがローマ七章で表現している罪人の姿そのものです。
 そんな状態の罪人は聖書に「永遠のいのち」を求めますが、その聖書が証言しているイエス・キリストのもとにいのちを得るために来ようとはしないとイエス・キリストは指摘しておられます。私達はどうでしょうか。
 第二に、今日の箇所から私達が学ばなければならないことは、イエス・キリストは私達にいのちを与えることができるということです。
 聖書はイエス・キリストのうちにいのちがあり、イエス・キリストご自身がいのちそのものであると語っています。
 そして、今日の箇所では、ご自身のうちにいのちを持っており、ご自身がいのちそのものであられるイエス・キリストが御言葉によって病める人を全くいやされたことが記されています。
 その三十八年間もの間病んでいた人は、ある偶発的に起こる奇蹟に期待していました。かつてそのような機会を逃したことを後悔しつつ、また自らを助けてくれる人が過去も現在もいないことを悲しく思いながら、いつ再び起こるかわからないチャンスを待ち続けていたのです。この人はこの世の多くの人々の姿を表しています。しかし、彼にとって真に必要なものは、そのようなものではありませんでした。イエス・キリストご自身とその御言葉こそ、彼によって真に必要なすべてでした。
 彼の三十八年間の人生は、イエス・キリストとの出会いと、イエス・キリストの御言葉を聞くことによって完全に変えられました。このことは多くの人々の生涯の変革を代表しています。私達はイエス・キリストに出会い、イエス・キリストの御言葉を聞く時に全く人生が変えられるのです。
 イエス・キリストは言われました。「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」私達が死人のように全く無力な存在であっても、イエス・キリストの御言葉を聞くならば私達は生かされるのです。
 イエス・キリストが病んでいる人をいやした日は安息日でした。神が御言葉によって天地万物を創造された後に安息日が訪れたように、神がイエス・キリストの御言葉によって人を完全にいやした時に真の安息日が来るのです。私達をもイエス・キリストはこの真の安息日に招いておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

(人生への適用のための質問)
1.イエス・キリストが三十八年間病気にかかっていた人をいやした場所はどこで
したか。




2.ベテスダの池にいる大ぜいの病人はどのような人々を表していますか。



3.聖書は誰について証言していますか。




4.真のいのちを持っており、いのちそのものであられる方は誰ですか。




5.三十八年間病気にかかっていた人はどのようにしていやされましたか。
  このことは私達にどのようなことを教えていますか。





6.私達が真の安息日を迎えるためにはどのようなことが必要でしょうか。




<来週(11.2.20)のメッセージ>
「幸いな人」(マタイ5:1~16)

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